「これはものすごくよくないかも」
「この状況、どう見てもよくないだろっ!」
いつもの賑やかしさもなく、珍しくここまで無言だった無明が初めて口を開いた。なにかを察したように、真面目な表情でこちらを見つめてくる。
「とりあえず璃琳はここから離れた方がいい。これを、」
袖から符を取り出し、ふぅと無明は息を吹きかける。すると黄色い符が緑色の仄かな光を帯び、璃琳の胸にすっと貼りついた。
「絶対に剝がしちゃだめだよ?」
「だ、大丈夫なの? あんな数、ふたりだけでなんとかなる数じゃないわっ」
震えた声で璃琳は小声で叫ぶ。
「幸い、明日の奉納祭のために各一族の公子たちや宗主が紅鏡に集まってる。お節介な誰かが騒ぎに気付いて来てくれるのを願うしかない。それまでなんとか持ち堪えてみせるさ」
落ち着かせるように璃琳の肩をそっと抱いて、竜虎は強がるように笑みを浮かべた。
「とにかくここからすぐに離れるんだ。ゆっくり、なるべく急いで、」
「大丈夫。璃琳のことは俺の守護符が必ず守るから」
「や、約束よ! 絶対、ね」
ふたりが頷くのを確認してから、決心したように璃琳は背を向け、灯を消して速足で駆けて行く。
姿が見えなくなったのを確認し、竜虎は左手をぐっと目の前で握った。右手の中指と人差し指を立て、まるで見えない剣の刃を這わせるように横にすっと素早く払う。
するとなにもなかった空間から、白銀の刃と柄が現れ手の中にしっかりと収まった。霊気の宿ったその剣は、霊剣と呼ばれるもので、人によって全く異なった姿形を取るという。
竜虎のそれは細身の霊剣で、王華と名付けられていた。
「璃琳にはとりあえずああ言ったが、勝算はあるんだろうな?」
霊剣を構え、今にも飛び掛かってきそうな殭屍の群れを前に、視線を向けずに無明に問いかける。
「考えるより動け、だよ!」
その言葉がまるで合図だったかのように、殭屍たちが一斉にこちらを向き、瞬く間に距離を詰めて飛び掛かってきたのだ。
無明は腰に差していた横笛を指を使って器用にくるりと回転させて口元に運ぶと、仮面の奥で眼を閉じふっと笑みを浮かべた。
途端に甲高い音色が鳴り響き、殭屍たちの足元が大きな音を立てて陥没した。
突然上から大きな力で圧し潰され、身動きが取れなくなった十数体のすべての殭屍が、抵抗するように身体を揃って無理矢理起き上がろうとしてくる。
奴らは身体が軋もうが、折れようが関係ないのだ。目の前にある肉を喰らうという、ただひとつの本能のまま動こうとする習性があった。
しかし笛の音はそれを許さない。
それはまるで目の前に嵐が起こっているかのような荒々しい音色で、時折耳障りな高い音が混ざって奏でられた。その度に陥没していく大地を見れば、無明の能力の高さがわかるだろう。
竜虎は圧し潰され続けて動けない殭屍たちを、外側から霊剣を薙いで次々に倒していく。
笛の音が止んだ頃。
あの大量の殭屍たちはすべて調伏され、灰と化していた。
✿〜読み方参照〜✿
璃琳(りりん)
紅鏡(こうきょう)、王華(おうか)、殭屍(きょうし)、
明け方、無明は白笶と共に玄冥山の玄武洞へと足を運んでいた。 昨夜から降り続いていた雨は止んでいたが、足元がぬかるんで歩きにくい。朝露に濡れた道端の葉が、太陽の光を浴びてキラキラと輝いて見えた。澄んだ空気の中、白笶は無明の歩幅に合わせてゆっくりと並んで歩いていた。 無明は白笶の左側を歩くのが癖になっていた。会話はいつもの通り、無明がほとんどひとりでしゃべっているような状態だが、それを見つめる眼差しはどこか優しく穏やかに見えた。 途中からは白笶に抱き上げられ、玄武洞のある場所まで飛んでいく。碧水の地が端まで見渡せるかのような絶景に、無明は思わず声を上げていた。晴れ渡った空もそうだが、壮麗な湖水の都は、運河も含めてひとつの景色として素晴らしい眺めだった。「おはよ、無明、白笶」 玄武洞の入口に立って、ひらひらと優雅に手を振っている逢魔は、ふたりの名を呼んでにこやかに挨拶をした。隣には彼より背の低い太陰が、腕を囲って揖し、礼儀正しく迎えてくれた。「おはよう! ごめんね、急に押しかけて。頼みたいことがあって、白笶に連れて来てもらったんだ。でもよく来るのがわかったね?」 逢魔を見上げて首を傾げて、そんなの簡単だよ、と笑う。腰を屈めて、無明の顔を覗き込み、人懐っこい雰囲気を纏ったまま、その金眼の瞳でじっと見つめてくる。「神子の匂いがしたから、太陰兄さんと一緒に待ってたんだ」「え? 匂い? 俺ってそんな変なにおいがするの?」「変な、じゃなくて、とてもいい匂いだよ、」 無明はますます首を傾げ、それ以上聞いても納得する答えは返ってこないと察する。 そんな逢魔の襟首を掴み、太陰は後ろに引きずると、話が進まないからお前は大人しくしていろ、と吐き捨てる。「神子、それで、頼みとは?」「うん、あのね、逢魔に頼みたいことがあって、」 言って、無明は白い衣裳の懐から綺麗に畳まれた文と、小さな花柄模様が描かれた布で作られた、鶯色の小袋を手の平に乗せた。「これを、母上に届けて欲しくて」「藍歌殿に? いいよ。あなたの頼みを断る理由はないし」 逢魔はそれを受け取ると、自分の懐にしまう。なぜ名前を知っているのか、という質問さえ抱かせないくらい自然な会話だった。「なにか伝えることはある?」「ううん、邸に置いて来てもらうだけでいい。母上ならそれでちゃんと解かってくれるから
真っ暗になった視界がふいに元の薄暗い部屋へと戻って来ると同時に、灰色がかった青い瞳が重なる。状態をよく見れば無明は床に仰向けに倒れており、白笶の右手が頭に敷かれている。 両の膝と左手を付き、跨るような格好で見下ろしてくる白笶の表情は歪んでいた。 一瞬でよく憶えていないが、胸元を掴んでいた指を解かれたかと思ったら、そのまま身体を翻した白笶に押し倒されていた。暗転した視界がぐらりと揺れ気付けば床の上だった。 頭に手を添えてくれている優しさとは逆に、その顔はどこか苦しげで。あのいつもの無表情からは想像できないほど、悲しそうだった。「······すまない。私は君に、かつての神子に抱いていた想いと同じ想いを抱いている。それは君が同じ顔で、同じ魂だからじゃなくて······君が君だから、」「······神子と白笶はどういう関係だったの?」 とても大切にしていたのだろうということは解る。けれども明確な答えは聞いてはいなかった。「一生共にいようと誓った、伴侶だった」 神子と華守であり、親友であり、恋人であり、家族であった。大切で、なくてはならない存在。片翼のようなもの。 そ、と無明は白笶の頬に右手を伸ばす。先程の言葉が頭を過る。代わりにしたいわけではなくて、そうではなくて。「俺は······神子の代わりじゃないん、だよね?」 何度も聞いてしまう自分の弱さが、白笶を傷つけている気がして、心臓が痛い。 玄冥山の時と同じだ。 この感情は、痛みは、きっと····。 神子の魂が自分に訴えているのかもしれない。目の前にいるひとはとても大切なひとで、離れがたいひとなのだと。「私は君と、共にいたい」 言って、白笶は柔らかい笑みを浮かべた。その笑みに無明は言葉を失う。そんな風に笑う姿を初めて見たというのに、なんだか懐かしささえ覚えたからだ。「俺も、······俺も、白笶とずっと一緒がいい」 これからなにが起こるのかもわからない。もしかしたら、かつての神子と同じような結末が待っているかもしれない。また悲しませてしまうかも。それでも傍にいたら、きっとなにかが見えてくる気がした。 記憶は少しもないけれど、この気持ちは間違いなく自分のものだ。両腕を伸ばして、白笶の首にしがみ付く。心臓の痛みはいつの間にか消えていた。 あたたかくて、心地好い。(こうしてると、なんだ
夕餉の後、無明は部屋には戻らず、白笶の後ろをこっそりついて行っていた。白冰に教えてもらったことを実行するためだった。(······なんかだか、悪いことをしているみたい) 邸の角を利用して物陰に隠れ、ある程度の距離を取って後ろを歩く。人気はなく、渡り廊下には雨の音だけが響いていた。 夕刻くらいから降り出した雨は、止むことなく降り続けている。打ちつける雨音は蓮の花や葉に当たると、水面に落ちる音とはまた違った低い音が鳴る。 渡り廊下には屋根が付いているので濡れることはないが、そこから少しでも出てしまえば、肩口が濡れてしまう。現に、無明が纏う白い衣裳と前髪がしっとりと濡れてしまっていた。(やっぱり、また今度にしよう、) 少しくらい胸が痛くても、我慢すればいいのだ。死ぬほどではないと白冰も言っていたし。 考えた末、白笶の背中をもう一度見つめ、ひとりで納得して頷いた。踵を返し、無明が一歩足を踏み出したその時、ふいに腕を掴まれて後ろに引き寄せられる。 へ? と間抜けな顔で振り返ってみれば、離れた場所にいたはずの白笶の姿があった。呆然と、腕を引かれたまま立ち尽くす。 もしかしなくてもバレバレだったのだろうか。 白笶は眼を細めて怪訝そうに見下ろしてくる。 広間を出てからなにも言わずに後ろを付いて来る無明を不思議に思いながらも、好きにさせていたのだが、急にこの場から離れようとしたので、思わず引き留めてしまったのだ。 よく見れば髪の毛から水が滴り、衣裳も肩や裾の辺りが濡れていた。無言で前髪に滴る雫を指で拭ってやるが、無明はその大きな瞳でただ見上げてくるばかりで、なにも言わない。「こちらへ、」 腕を引いたまま、白笶は自室のある方向へ向かう。雨音が激しくなっていた。白笶の部屋は邸の北側の一番端の方にある。 そこは他の部屋と違い、湖水が途切れている場所のため、部屋の外に庭があり、よく手入れの行き届いた池もあった。庭には三つほど背の高い精巧な石造りの灯籠もあり、暗い庭を仄かに照らしてた。 その明かりは雨の雫に反射して、庭全体を幻想的な空間に仕立てており、部屋の中よりもずっと明るく見える。 元々は客間だったが、白笶がここが良いと珍しく我が儘を言って自室にしてもらったのだ。灯篭がひとつだけ灯っているだけの薄暗い部屋の中に入れば、必要最低限の物しかない殺風景な部屋
白冰は人差し指と中指を親指を起点にしてぴんと弾いた。それは目の前で文机に頬杖を付き、上の空になっている無明の額に見事に当たり、途端、ひゃっという声が自室に響く。「せっかく一日時間を空けて、君と最後の研究に没頭しようと思ったのに、君ときたら······これで何回目かな?」「うぅ······白冰様、手加減しているとはいえ、痛すぎるよ」 赤く腫れあがった額を両手で抑え、涙目で無明は訴える。「ふふ。これでも十倍以上減で、優しく優しくしてあげているんだよ?」 もちろん、本気でやったら頭が吹き飛ぶ可能性は高いだろう。 竜虎に聞いたのだが、彼の腕力はその細腕からは想像できないほど強いらしい。無明は頬杖を解き、そのまま机に上半身を預け、はあと大きく嘆息する。「どうしたの? なにか悩みごとかい? 私でよければ相談にのるよ?」 よしよしと猫でも撫でるように無明の頭を撫でて、白冰は笑みを浮かべる。 さっさと通霊符の完成を目指したいのに、当の本人がこの状態では難しいだろう。なので、とりあえずその原因を取り除くのが先と考えた。「白冰様······俺、病気かもしれない」「病気? どこか痛むのかい? 診てあげようか?」 普段のあの無明からは考えられないほどの元気のない答えに、本気で心配した白冰が訊ねる。 仮にも神子である無明に、何かあってはならないと思っての事でもあった。「いつから調子が悪いの? 玄武との契約の後?」 無明は首を振って「違うよ」と答える。伏していた身体を起こし、白冰を見上げ、また大きく嘆息する。「なんか胸の辺りが痛くて······あと、頭がぼーっとする」「本当に? ちょっといいかな?」 白冰は頬に触れて熱を測るが、少し自分よりも熱いくらいで風邪などではなさそうだ。 心臓のある辺りに触れてみても、特に変わった心音はしない。けれども無明が嘘を言っているようにも思えず、首を傾げる。「ちなみにだけど、なにか思い当たることはある? そうなる前に起きたこととか、」 訊ねた途端、無明の顔がみるみる赤くなっていくのがわかった。「蔵書閣で、白笶に······本棚にどんってされた」「どん?」 無明は蔵書閣で起こった事を、簡単にだが的確に話した。それを聞いた白冰は少し考えて、それから急に声を上げて笑い出した。「あははっ······くくっ······
竜虎は後悔していた。 自分で誘っておいてあれだが、共通の会話が無明以外ない。そもそもついひと月半前までは、彼は口が利けたのかと驚いていたくらいだ。 白群の中でも、修練の時以外はひと言でもしゃべれば珍しがられるほど、普段から無口なようで、これでも社交性のある方である竜虎でさえも、そろそろ限界に達しそうだった。「あー······えっと、白笶公子は、なにか趣味でも?」 馬鹿か! 俺は馬鹿なのか! 訊いておいてすぐに後悔する。もちろんこんな唐突でわけのわからない質問にも白笶は無表情で、だが誠実な性格が返答しないのを許さなかった。「··········特にない」 すみません、俺の質問が悪かったんです、許してください。 どうしてこんな苦痛をわざわざ味わっているのかと言えば、答えは一つ。これからどうやってこのひとと向き合えばいいのか、を模索するためだった。 市井の茶屋は何軒もあり、それぞれに売りにしている菓子や茶があり、この茶屋は無明にすすめられて選んだつもりだ。目の前には茉莉花の花茶の良い香りが漂っていて、茶請けに蜜棗が添えられていた。 それから沈黙が続く。 竜虎は完全に気まずさが顔に出ているが、白笶にとって沈黙はいつものことなので特に気にしておらず、花茶を口にしては店内を眺めていた。この茶屋はそれぞれ個室になっていて、大きな花窓が入り口から見て左側にある。右側には木製の赤い衝立があり、個室と通路を仕切っている。 竜虎は入口側、白笶は奥側に座っており、花窓は竜虎から見ると左側にあった。周りの声はそれなり聞こえるので、茶屋自体は賑わっているのが分かる。ここの空間以外は、だが。「······君は、なぜ強くなりたいんだ?」 まさかの白笶からの問いに、竜虎はもう少しで口に入れたばかりの蜜棗を呑み込んでしまうところだった。「き、急に、なんですか? なんで、そんなこと、」 自分の質問も大概だったが、白笶のその問いも急すぎる。しかし、せっかくの会話のきっかけだ。竜虎はこほんと咳をひとつして、ひと呼吸おいて口を開く。「俺は、ずっと昔からあいつを見てきました。あいつを傷付ける奴は赦さないし、絶対に負けたくない。無明を守る。これは約束であり、決意であり、俺が剣を揮う理由。もちろん、紅鏡の民も守る。だけど、そのためには強くならないといけない。口だけならなんとでも
よし、と清婉は筆を置く。このひと月半ほど、時間がある時に少しずつ書きためていたものがなんとか完成した。 白群の人たちのために、なにかできないかと思い、自分ができることを考えた末、用意できる食材ごとにいくつかの調理法と、作れる料理を書き綴ってみたのだ。(食事は毎日の修練でボロボロになっているみなさんの、英気を養う大事な時間。時間を短縮できる簡単で、栄養もある食事を、と思ったけど、) 思い付くだけ書き綴ってみたら、だいぶ書物がぶ厚くなってしまった。「ん? なにしてるの?」 厨房でひとりもくもくと何かを書いている姿を目にした雪陽が、後ろから覗き込むように声をかけてきた。びくっと肩を揺らして、清婉は思わず書物をぶん投げそうになるのをなんとか思い留まる。「び、びっくりしました! 雪陽殿、でしたか。まだ昼餉の準備には少し早いですよ!?」「うん、知ってる。今日は白冰様が無明殿と一日中符術の研究をするって言うから、やることなくて」「そうなんです? では他の方々も修練はお休みなんですね、」 そうだよ、と雪陽は言いながら、清婉の横に座った。筆と硯と書物が並べられており、なにか書いていたのだろうということは分かる。 雪陽は凛々しい眼をしているのに、いつもぼんやりとしていて、話し方ものんびりしている。けれどもちゃんと気遣いができ、周りにも尊敬されていた。「なに書いてるの?」「あ、はい、みなさんに、僭越ながら私からの贈り物です」「あ、これ、料理の調理法?」 ぱらぱらと捲って目を瞠る。うちの台所事情を考慮した上で、少ない食材でいくつもの料理が考案されていた。「みなさんにはとても良くしてもらったし、無明様たちもお世話になったので、どうしてもお礼がしたくて。でも、私は大したことはできないし、お金もありませんから、こんなことくらいしかできなくて」 あはは、と卑下しながら清婉は言う。「なに言ってんの? 清婉殿はすごいひとだよ。俺も雪鈴もすごく助かってる。ずっとここにいてくれたらいいのにって、思ってるし」 それは従者として、ではなくて。友として、兄として、家族として。しかしそれは叶わない。だって、それは、ただの我が儘だから。「俺、清婉殿のこと、好きだもん」「あ、ありがとうございます」 一瞬、その眼差しに囚われそうになったが、清婉はにっこりと笑って礼を告げ